時代の重圧  日満ロータリー連合日満連合


盛岡クラブが創設された頃、第70区を日満ロータリーと改称して自治体とすること、ガバナーの名称を日満ロータリー会長にすることなど7項目の機構改革案が提案され、1939年 (昭和14年) 4月の地区年次大会で決議された。
これは日中戦争の拡大につれて、国際団体であるというだけの理由で、ロータリークラブが反戦的であり亡国的であるとする誤解や、ロータリーをスパイ活動をする秘密結社とみなす軍部による圧迫が表面化してきたため、その対策として日満ロータリーだけで国家単位のロータリー組織を作り、国際ロータリーから独立した形でロータリーを運営し、世間の誤解をやわらげていこうとするものであった。
ところがロータリーのこうした努力は、残念ながら報われることなく太平洋戦争前夜の時代の潮流にのみこまれた。同年7月国民徴用令が、10月価格統制令があいついで公布され、右翼や軍部による圧迫も日増しにつよくなった。各地の例会場に、憲兵隊や特務隊など軍部による目が光るようになり、世間の誤解や非難がロータリアンひとりひとりの肩に重くのしかかってきた。
そういう状況の下で、板井賛次郎会長をはじめ盛岡ロータリークラブの会員諸君は、国粋的な感情にとらわれることなく例会を続け、ロータリーの火をともしていた。会員わずか16名の家族会に100人以上も集まるという盛況であった。


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