苦難の選択  国際ロータリー脱退


解散記事 1940年 (昭和15年)、年が改まると、英語が多いというだけで憲兵隊の取り調べを受けるような時代になった。当クラブは創立以来リベラルな信条を持った団体ゆえに、かえって世間から秘密結社のようにみなされ、憲兵隊の監視をうける事態を招くことにもなった。
そして、ロータリーを存続させるか解散するか、議論百出するなかで、日満ロータリー連合会会長米山梅吉が軍当局の呼び出しを受け「ロータリーの組織は日本帝国に対する反逆である」と極言され、さらに同年8月、まず静岡RCが、続いて大阪RC、京都RCが国際ロータリー脱退を決議した。9月4日、日満ロータリー連合会もRI脱退を決意し、「全クラブとも一応解散の形にまとめた上で改めて発起人を選び、国家単位の新組織に改造することを適当の処置とすることに意見の一致を見た」 旨、9月5日付けで芝染太郎幹事から各クラブへ書信を送った。
こうした動きに対応して、盛岡ロータリークラブは、9月5日午後1時から県公会堂談話室で例会を開いて解散問題を協議した結果、自発的に解散することを申し合わせた。翌6日付 「新岩手日報」 は、次のように報道した。
 遂に解散す
盛岡ロータリー倶楽部
 解散か否かを注目されてゐた盛岡ロータリー倶楽部では、五日午後一時から縣公会堂談話室で板井殖銀頭取外会員十二名出席、例会を開催したが、解散問題につき協議の結果、自発的に解散を申し合わせ同二時散会した。
盛岡ロータリー倶楽部は昨年三月板井殖銀頭取を会長に市内の職能代表、有力者十七名によって組織されたものであるが、本年七月中岡奥電社長が会長となったが、同社長は先月末脱退した。
 1939年 (昭和14年) 2月に発足した盛岡ロータリークラブも時代の潮流には抗しきれず、一年半でついに解散することとなった。



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